深い森の中、白、赤、黄色など、様々な草花が咲き乱れる花畑の中央に、男が一人、あぐらをかいて座っていた。
否、そこには古い文字で書かれた石碑があり、その上になんでもないことのように。
「ん――この気配は……イレギュラーか」
瞼を薄く開くと、男は着崩した闇色の着物とともに、立ち上がる。
「ガーフィ、あいつがちょっかいを出すかもしれないな」
長い茶髪に、ヒゲを生やしっぱなしの男は、けれどもその紫と黒のオッドアイの眼差しで、草履を履いたまま石碑を蹴る。
「キルストゥの気配もあるな……まあ、赤と青ではないと思いたいが、そこの区別はわからんが」
男は目を細めると、木の枝をたくみに折れない道を飛びながら、深い闇の森を疾走する。
「――先走るなよ、キルストゥとガーフィ、魔よ」
遠慮なく花畑を、そして草や枝を踏み潰しながら、男は草履のまま走り抜ける。
「イレギュラーが仲裁役とは限らん。一度、はっきり姿を見ねばわからん」
駆け抜ける速さは人間を超えた男――彼は軽く奥歯を噛み締めながら、まっすぐ結界内に広がる町へ向かった。
この結界をよく知る者は知っている。
ハフノン――別の意味で、希望という名を持つ男は。
「一室で、男女一緒、かー」
「なにも期待してないから」
セプテットはダブルベッドのある質素な宿の一室で、二人とも荷物を整理していた。
ここしか観光用の宿屋がない、というので、仕方なく選んだ宿だ。
そして、セプテットが睨みながら窓側の位置を勝ち取った。
「変なことしたら死ぬほうなので、安心してください!」
旅の発案者であるウィンストンは半泣き状態で、パソコンを宿のテーブルに置く。
宿の人いわく、ちゃんと有線で通っていた。
ないと困ることが多いから、らしくウィンストンは安心してネットを繋ぎ、ウィズベットのアドレスを登録する。
「でもさ、気付いてくれるかね?」
「件名に名前書けば伝わるでしょう? 先に予定書いておけば?」
と、セプテットがすらすらと言いつつ、車椅子を動かしている。
「一軒だけだけどさ、風呂は一室づつあるから、便利だよな」
「そうね。温泉しかないと、さすがに入るのに苦労するから」
助かるわ、と暗に言いながら、茶髪の少女――に見える軍人はゆっくりと両足で立ち上がった。
車椅子は、畳んでベッドに立てかけてある。
「ふーん。でもその足のブーツ? 特別製なんだよな。なんで?」
戦えるのはわかったが、ウィンストンにとっては見たこともない金色みたいなブーツを履く彼女が不思議だった。
足腰も鍛えていて、車椅子に乗ってる理由が未だにわからないのだ。
「知らなくていいことよ」
と、彼女はゆっくり、割れ物を触らないように、としか言いようのない足取りで、ウィンストンのパソコンをのぞく。
「とりあえず、メールは送った?」
「ああ。それじゃ、なにか食べに行こうか」
「……何事もなければいいわね」
セプテットの言葉がなにを意味するかわからぬまま、ウィンストンは頷いた。
昼下がりの結界内は、ほとんど観光地といって過言ではない賑やかさがあった。
ただひとつ違うのは、観光客たちのほとんどは一旦外に帰るのだという。
いつ寿命で帰れなくなるかは、わからないためだとか。
「ずっと車椅子に乗ったままのほうが良かったんじゃないか?」
ウィンストンがそれのハンドルを押しながら、一度宿で降りたそれに乗っているセプテットへ告げる。
「なにを言ってるの? 一応軍人だし、障害持ちと思わせたほうがなにかと便利なのよ」
悪人顔だ、とウィンストンは思いながらも、人の流れに沿って食事処を探す。
「お、あのいかにも古そうな看板、しかもお食事処って書いてあるぞ!」
「なぜかしら、嫌な予感しかしないわ」
ハンドルを握るウィンストンの歓喜に対し、セプテットは周囲の声に溶け込むような声量で呟いた。
「行こうぜ! きっとハッピーな料理が待っている――っ!」
「ちょ、もっとゆっくり動きなさい! いつもは恐る恐るなくせにっ!」
前のめりになる身体をなんとか手すりにつかまりながら、セプテットとウィンストンは年月を感じさせる店の前につく。
木製で年月を感じさせる店は、手書きでオープンと汚い字で描かれていた。
「き、緊張するな」
「親しみがあるとか言いそうだったけれど」
「と、とりあえず入ってみるか」
ウィンストンはぐっと丹田に力を入れると、車椅子の制御をセプテットに任せる。
そして、ぎぃっと音を立ててくたびれたドアを開いた。
木製の年月が入ったその向こう側には、扉と同じく椅子とテーブルが数人座れるようにできていた。
「なかなかいい飾り付けね」
「そうだな」
ウィンストンとセプテットは、しばしこの光景に見とれていた。
段差はないが、車椅子で入店できるか、ウィンストンたちは目配せする。
「すみませーん! 車椅子で入っていいですかー!」
大声で呼ぶが、ウィンストンの声が木霊するだけで、変化はない。
「ウィンストン、中に入ってみて」
茶色の瞳が彼を射抜く。
頷いて、店内の奥へ行く。
「ん? 誰か来たのか?」
しゃがれた声のほうへ視線を向けると、カウンターの奥、いやさらに奥の座敷に、耳が遠そうな老人がいた。
「すみませーん」
「おやおや、今日は休みにしたはずだったんじゃが」
ウィンストンはそんな看板は見てないな、と老人が立ち上がってカウンターへゆっくりと来た。
「見たことのない顔だな。観光客か?」
「ええ。ただ、車椅子の人がいるんですが、中に入っていいでしょうか?」
「椅子をよけてくれたらいい。料理するしか能がなくてな」
老人はどこからともなくエプロンを取り出し装着すると、メニュー表を渡した。
「今日は仕込みしてないからな、これしか食べられないが」
メニュー表の一点を指差すと、ウィンストンの目の色が変わった。
そこに描かれていた食材に、食いつく。
「この実、見たことないですよ。ブルーベリーとかとも違う……一体、なんですか」
「グリルの実も知らないのか」
驚かれるも、老人はにっこりと笑みを作る。
「初めてこの結界の街に来たんだな。ほら、そこのお連れさんも睨んでいるから、先に中に入りなさいな」
「あ、忘れてた」
ウィンストンがセプテットを見た途端、彼の額に小さいなにかが当たった。
額が小さく赤くなる程度には攻撃力のある小石だった。
いつから持っていたのかはわからないが、威力はあった。
「ほっほっほ。なかなか面白い娘っ子だ」
「笑い事じゃねえって!」
からからと車輪を回しながら、セプテットがウィンストンを睨みつける。
「いえ、他人、しかも車椅子の女を無視して自分の世界に没頭するものには十分な罰です」
「そうじゃの」
ついでにウィンストンは開きっぱなしだった扉を閉めて、セプテットを入口付近のテーブルに椅子をよけて座らせる。
「全く……料理好きとは聞いていたけれども、忘れ去られるとは思わなかった」
ちくちくと棘を込めながらも、セプテットは店の雰囲気は気に入っていた。
建築は古いだろうが、質素な飾付けの部屋は嫌いではなかった。
「で、料理作るの手伝うからさ、じいさん、いろいろ教えてくれよ!」
「はて、客に教える道理はないんだが」
白髪の老人は、のんびりとした動作で手をあわせるウィンストンを見つめる。
「郷土料理を研究して旅してるんだ!」
「おやおや、それでこんなところまで来たのかい」
「ああっ! 護衛もいるし、先生から許可も得ているから問題は全くゼロだ!」
満面の笑みが輝いてるウィンストンに、老人はくしゃりと笑みを返す。
「そこまで言うなら仕方がない。厨房に入ることを許可しよう」
「終わるまで待ってるわ。好きなだけ料理奮ってちょうだい」
「はいはい、お姫様」
わかればいい、と老人から水をもらって、彼女の手元に置くウィンストン。
「好きにしていいわ。護衛っていっても、ここはあまり危険なさそうだもの」
「ありがとな!」
新鮮な挨拶に、セプテットは目を一瞬だけ見開く。
「恋人と来るとは、青春だねえ」
「いや、護衛と護衛対象です」
即答で返されて、ウィンストンの背が少し震える。
「ふっふっふ。嫌いな相手なら、その反応はないと思うが――おせっかいだったか」
「ええ」
「失礼だろー! えっと、荷物からエプロン着てっと。よろしくお願いします」
ペコリとウィンストンが頭を下げると、老人は微笑ましい関係だと言わんばかりに微笑んだ。
「お金は取るぞ?」
「構いません!」
元気よく答えて、好奇心全開でウィンストンは厨房に入る。
「あ、見たことのない調味料や食べ物がたくさんある……!」
ウィンストンの様子に、老人はにやりと口の端を上げた。
「現代の外の世界では、絶滅した果物や野菜だ」
「へ、えっ! そ、そんなものがここにあったら、国の農家が黙ってないんじゃ……」
「長持ちしないからな。外の結界に弾かれるとも聞く。十年は持たんからな」
「それはそうですね」
でも無機物は通るのでは? とウィンストンは首をひねった。
「果物や野菜も生き物判定なんだ」
「あー、そうなんですね。で、ここでしか食べられないと」
「食べ慣れてないとちょっと口にあわないかもしれぬがな」
そう言いながら、緑色の殻に包まれた実を老人は包丁を入れる。
「わぁ……すごく自然に入ってる」
「そっちの葉物野菜をこう半分にしてくれ」
はい、と答えて、ウィンストンも手にした包丁でキャベツやレタスに似た食材をさばいていく。
「なにを作ってるんですか?」
「ル・シェルの実のスープだ。これが昼には丁度いい」
外の人間の口に合うかはわからないが、と彼は付け加える。
鍋に水を入れ、実と野菜を浸す。
そしてウィンストンには見覚えのない赤い辛そうな調味料少量と、珍しい青色の粉末を小鉢で混ぜ合わせる。
「それは?」
首を傾げる料理人学生に、老人はほっほっほ、と笑って誤魔化した。
「辛い、のか?」
泡立って沸騰してきた中に、合わせた粉を振り入れる。
おたまで食材と粉末を混ぜた鍋は、赤い色をしていたが、鼻をつく香りは空腹な腹にとって食欲をそそるものだった。
「辛いと思わないけれども……」
ウィンストンは老人の言葉を思い出す。
これは、外の町ではもうないものだと。
「つまり、改良してない食材の料理を食べれるってことかっ!」
「外から来る客には、不評なことが多いんだ」
「そりゃあ、食べやすくしてある食料だけ食べてるんだから、当然だって!」
ウィンストンの熱弁に、老人は目を丸くする。
「そういうものなのか」
老人に、ウィンストンはうんうん頷く。
「そういえば、あなたは外に出られるの?」
遠くから、水が空になったコップの氷を弄ぶセプテットが尋ねた。
「いや。しかし、残酷なことを聞く人だ」
「人の心がわかってないとはよく言われるので」
どこ吹く風と、セプテットはぐっとコップを突き出す。
「ウィンストン、おかわりを」
「すまないな、開店してたら水も置いてたんだが」
「いえ、失礼はウィンストン――そこの男のせいなので、気に病むことはありません」
そりゃないよ、とウィンストンはスープから目を逸らすと、セプテットのほうに行く。
「毒見は任せたわ」
「今回は自信ないぜ」
小声で、セプテットのいるテーブルで水をコップに注ぎながらウィンストンは断言する。
「原典みたいな食材って話だ。まあ、話聞いてると他の客が毒見代わりになってるから、心配はないと思う」
「そうなの?」
「前の町じゃあるまいし、そうそう毒物回ってるとは思わんよ」
それに、自分だけで食べるつもりだった料理にそんなもの混ぜるとは思えない。
「それもそうね。突然の客に薬物入れることはないわね」
「味はわからんが」
「味見はしなかったの?」
「呼ばれたからな、今」
断言され、セプテットはそれもそうか、と目を閉じ茶髪を揺らした。
「話は終わったかい、二人とも」
ウィンストンの心臓が跳ね上がる。
「え、あ、はい」
「わざわざ持ってきてくれたのですか?」
冷静なセプテットは、老人が三人分のスープを用意してくれたことに、笑みをこぼした。
「良い方ですね」
「ほっほっほ。なに、独り身での。若いあんたらさえ良ければ外の話が聞きたいんだ」
ウィンストンとセプテットは顔を見合わせる。
「それじゃあ、刺激的な話をします」
「いや、昨日の事件のことか!」
「面白そうだな! なにせ、ここにいると娯楽は記者さんとお客さんのインタビューか土産話を聞くくらいしかないから」
「それで割引にならない?」
若い見た目だが、実年齢は退役しててもおかしくないセプテットが、さらっと尋ねる。
「残念ながら、客入りが悪いので割引はしておらん」
「そう、残念ね」
心が全くこもっていない声に、ウィンストンがエプロンを脱ぎながらフォローを入れる。
「いやいやいや、セプテット金なら山程」
「現金は?」
「す、少ないけどあるよ」
鋭い瞳が突く目の意味を悟って、ウィンストンはああ、そうかと納得した。
「ここは、かーどというのは使えない」
「……宿は使えても、老人さんがカード支払いできるとは思ってなかった」
「そういう知識は先に教えておいてください、セプテットさん」
全く頭になかったウィンストンは、泣き出しそうな目で彼女を見やる。
「ほっほっほ、まるで夫婦だな」
「あり得ません」
「どこを見たら夫婦に見えるんです!?」
即答しながらも内容が違う返答は、老人を笑わせるには十分だった。
「面白い二人だ。で、スープが冷めてしまうから食べてくれんか?」
「そうね、もう変なことは言わないでね、おじいさん」
セプテットがスプーンでスープを口に入れた。
広がった味は苦みと甘さが融合した、なんともお世辞で美味しいと言えるレベルのものだった。
「どうじゃ、ル・シェルの実のスープは。この苦みがなんともいえない」
「赤い粉だから、辛いと思っていたんですが……あれが苦みの原因?」
ウィンストンは味に冷静に対処していた。
「そうだな、実はそのまま食べると倍は苦くて食べられんが、熱を通してあの粉で余分な苦みを消しているんだ」
「消しててこの味なの……?」
「ほら、外の客にはうけがこうして悪い」
「いや、それはわかります」
ウィンストンも実はセプテットと同じ感想を抱いていたが、それ以上の知識欲が上回っていた。
「ん、外の野菜たちが生物判定されたら、外の食べ物ここでは食べられないのでは?」
「ああ、合点がいったわ。だからみな結界の外へ帰るのね」
「なかなか美味しいのにの」
残念そうに肩を落として、老人はスープを一気に飲んだ。
「それ全部飲めるのすごい」
「慣れてるからの」
老人はなんでもないことのように告げると、さて、と立ち上がる。
「では、現金でこれだけじゃ」
「あ、安い」
「米もなくスープだけだったからの。さすがにメニューの全部分の料金を貰うわけにはいかんのだ」
老人は懐かしいものを見るように、セプテットとウィンストンを見つめる。
「でも、どうしてあなたはここに残っていたの?」
問いかけに、老人は目を一度閉じる。
「長老を引き継いだからの」
その重い意味に、二人は沈黙を返す。
「最初は、親が結界内にいたから外と出入りをしていたんだが、彼に選ばれたのだ」
「彼?」
老人――長老は目を開くと、頷いた。
「この森の深い奥に、数百年も生きている着物の男がいる」
「着物……東の国の人ね」
「ああ。出身はそこだが、彼は――」
「魔。あるいは神と呼ばれる、キルストゥの赤と青が殺めるべき存在、だっけ」
「詳しいんだな、セプテットは」
よく聞かされて育っただけよ、とセプテットは机を叩きながら呟く。
「もし、姓がキルストゥなら、その名は伏せたほうがいいぞ」
「どうして? キルストゥはもう懸賞金――いえ、ここは違うか」
セプテットは察したが、ウィンストンはぴんと来なかった。
「一度死ぬと外に二度と出られないのね、数百年も」
深く頷かれて、セプテットははぁ、と息を吐いた。
「そうね、聞かれていなければ答えないわ」
「あ、セプテットってキルストゥなんだっけか」
「単なる姓よ。赤でも青でもない。ただのキルストゥ。父親がそうだっただけ」
冷たい、恨みを感じ取ったウィンストンは、それ以上は聞かないことにした。
「まあ、そういうわけで、観光に来ただけならキルストゥという名をこの結界内では出さないでほしい」
「そうね。殺されるかもっていう人たちが多いのでしょう、ここ」
口にしてから、セプテットは目を細める。
「それだけ、ここで殺人があったの?」
「人から争いや殺しは取り上げられんからな」
「建国前からあった場所なら、なおさらね」
「一度、大昔にキルストゥの赤と青がやってきてな。魔、いや神をことごとく浄化、開放していったが……」
「ん? それがなにか問題あったのか?」
事情がいまいち飲み込めてないウィンストンは、目をパチパチさせて二人を見る。
「家族がいたり、親友がいたりしてみなさい? ほら、想像してみて――」
セプテットがスプーンをびしっとウィンストンに向ける。
「友達でもいい。なんらかの親しい関係がもしあったなら、キルストゥはただの殺人者よ」
「え? でも魔っていうからには悪いやつだろ?」
「もし友達だったら? 浄化――殺されて嬉しい人がいると思うの?」
例え話に、ウィンストンはああ、とやっと納得した。
「相変わらずはっきりとはわからないけれど、無差別殺人が結界内では起きたも同然だったのか」
「そういうこと。魔も人も、一見は同じだからね。魔は存在を消されたら塵も残らないらしいけど」
「詳しいの」
聞き役に徹していた長老が、一度眉をひそめた。
「まあ、全部受け売りよ。魔とか言われてもぴんとこないし。異能者のほうがよっぽど厄介だったわ」
そういう知り合いがいるのか、と別の意味でウィンストンは感心したが、長老はゆっくり立ち上がった。
「数年に一度は、この結界内でも殺人事件は起こる。理由は様々だが――」
「外に出られなくなったら、かしら」
セプテットが引き継ぐと、老人は頷いた。
「その通りだ。まあ、それでも魔になる可能性は恨み怨念がある者に限るため、少ないが……」
「最近、キルストゥにかかっていた懸賞金が解除された。知ってる?」
長老へ問うと、彼は首を縦に振った。
「国王が赤と青のキルストゥを引き連れて、戻ってきたのです」
淡々と告げると、長老は傾聴していた。
「そして、真逆のことをした――つまり、キルストゥの保護にお金を出すと」
「そんなことが本当だとしたら、増えていくのではないかね?」
「ただのキルストゥ姓の人は別に魔を祓う力はありません。聖水でもない限り」
その辺りは、ここにいない本来の赤のキルストゥのフォークが詳しいのだが、いないものは仕方がない。
「だから、ほとんど一般人と変わりなんてないのよ」
「そうなのか、セプテット」
ウィンストンが言うと、彼女は首を縦に振った。
「ええ。なんでか勘違いしたのか、キルストゥの血統に恨みがあったのかまではわからないけれど」
「その、魔を祓うって、キルストゥだからできるもんじゃないのか」
「そうよ。当たり前じゃない。できてたらその辺にいる魔なんているわけないじゃない。キルストゥが祓ってしまうんだから」
ぽかんとする二人に、セプテットはなによ、と鋭い目を向ける。
「詳しくてつい……」
ウィンストンに、長老も釣られて頭を頷く。
「はい、この話題は終わり。で、この美味しくないものは」
「うーん、荷物があれば、栄養が今の品種改良品と比べられるんだけどなー」
「持ってきたら? 私がここにいれば、食い逃げとも思われないだろうし」
「いいぞ。元々今日は休みだ。料理が好きなんだな、お主は」
長老も嬉しげに笑みを浮かべ、ウィンストンはおう、と言って立ち上がる。
「じゃあ、待っててくれ――うわっ!」
「おい、巫女から聞いたぞじじいっ!」
ばんっとドアを乱暴に開いた黒髪に赤目の少年は、人を殺さんとばかりの怒気を孕んで中に入ってきた。
一番近くにいた硬直したウィンストンの襟首を掴むと、おい、と凄む。
ウィンストンは頭が真っ白になって、なにが起きたか、理解できなかった。
「おうおう、キルストゥを入れたってな! 外にもいるって話じゃねえか!」
「キルストゥは私よ」
美味しくないのでちまちまと食べていたセプテットが、見もせずに言葉を放つ。
「車椅子の、軍人か?」
「別に、魔を祓う力はないわ。足がちょっと一般人とは違うだけ」
目を細めて、横目でセプテットはやってきた少年を見る。
「その手を離しなさい。それ以上やるなら、護衛の私が許しはしないわ」
「おう、面白いじゃねえか。車椅子の軍人なんかが護衛できるなんてな」
どんっと、殺気立った空間を戒めるように、音がした。
「ガーフィ。キルストゥが入ったからと言って、他人に絡むなと何度言えばわかる」
「長老やハフノンは、呑気すぎるんだよ! いつまたキルストゥが魔を祓いに来るかわからねえんだ」
「キルストゥの一部よそんな馬鹿なことできるのは」
目を閉じ、セプテットは頭を抱えた。
「少なくとも、その男はキルストゥでもなければ魔でもない、一般人よ。ここでは、一般人も敵とみなすの?」
「乱暴者がいる町、と思われるのはかなわん。手を離せ、ガーフィ」
命令にも似た冷徹な声に、彼は舌打ちして長老のほうに行く。
「これをくわしてたのか、外のガキどもに」
目を見開き、ガーフィはセプテットの冷たい目と好奇心に満ちたウィンストンを見比べる。
「手を出さなければ無害な、大事なお客様だ。わかっているな」
その言葉に、ガーフィは口を閉じる。
「言うべきことが、あるのではないか?」
「すなまなかった」
そうして、深く頭を下げる。
「キルストゥのお嬢さんはあまり好評ではないが、彼は比べようと熱心に料理に命をかけている。ガーフィが守ろうとする日常と同じくらいにな」
「いや、そのそんなおおげさなことは」
がしっと、否定を拒否されてガーフィにしっかり握られる。
「あれをもっと美味くしてくれるのか!」
どうやら、彼の時代からふつうの人にも味が不評らしい。
「えっと、いや……調べたいんだ、栄養のこと。それだけだから、外の料理並みに美味しくするわけじゃないんだ」
「そうなのか。はぁ……でも、興味持ってるなんて、変なやつだな」
「郷土料理を巡って、大陸を旅してるからな」
ウィンストンの言葉に、ガーフィはふるふると震え始める。
「すげえな、お前」
「ん? なにも凄いことはないよ? 前の町ではちょっとトラブルにあっただけだけど」
ウィンストンが不思議そうに首を傾げると、ガーフィは目を見開いてあれだけの殺気を引っ込めて、興味津々な子どものように、言葉を放つ。
「すげえって! なあ、なんか外の料理振る舞ってくれよ! 今はどれだけ変わったんだ?」
「ガーフィは数十年と外に出ていないからな」
「出れないのね……」
「だからその分、外の変わったことには興味があるんだ」
長老がやれやれと肩を落とす。
「おい、長老! ガーフィのやつ来て――」
と、新たな着物姿の青年が現れた。
「あ……ハフノン」
「えっと、車椅子の女の子に、青年と、長老と、ガーフィ? 今日は店休みでなかったか?」
肩で息をしながら、ハフノンと呼ばれた青年は一番戸惑う。
「えっと、どなた?」
ウィンストンがぽろりとこぼして、長老がふむ、と腕を組む。
「ハフノンだ。ガーフィよりもずっと前に、魔になったここの守護者だ」
「ガーフィが迷惑をかけたようで、済まない」
こちらも深く頭を下げる。
逆に悪い気がするウィンストンと、当然だと言わんばかりのセプテットに、長老は苦笑する。
「いえいえ、頭下げられるほどのことは」
「されたでしょう。喧嘩売ってきたのはそいつ」
セプテットが静かに冷めた目でガーフィを見る。
「軍人、お前根に持ってるだろ」
ぎろりと、稲妻がバチバチと鳴るような敵意が散る。
「二人とも、相性が悪いのはわかったけれども、喧嘩はやめろ」
はぁ、と息をついて、ハフノンは着物を直した。
「ガーフィもいい加減、キルストゥだからって絡むな。イレギュラーと一緒なら、そんなに問題もないだろうし」
「イレギュラー?」
その単語に、セプテットが眉を上げる。
「そこの青年だ。イレギュラーってのは、人の運命を変える力が強い人のことだ」
にっこりと笑みを浮かべる彼に、ウィンストンは瞬きを繰り返す。
「いや、オレは単に料理好きの一般人ですけれど」
「イレギュラーは、そんなことは関係ない。遺伝もな。人としての在り方が、他の人と違うんだ」
「在り方? どうみてもこいつはただの人よ」
それに、ウィンストンはこくこくと頷く。
「この旅の発案者ではあるけれど……一般人ですよ?」
「異能でも特技でもないからね。予定された未来を変えることが可能な人」
はっきりとではないけれども、と付け加える。
「今を生きる人の力が強い人間。それを、イレギュラーと呼んでいるんだ」
ふわりと笑われて、ウィンストンは目を細めた。
「よくわからない、ですけれど」
「そうだろうね。でも、確かに間違いなく人として生きるのに強いものを、持ってるんだ」
「目に見えないような力なの?」
セプテットが鋭い声音でハフノンを見る。
「ああ。たぶん、生きていればそのうちわかるよ。もしかすると、その旅自体が、イレギュラーの賜物かもしれないね」
邪気の欠片もない瞳に、ウィンストンはそうなのかな、と頬をかいた。
「だから、ガーフィもお嬢さんも。喧嘩はしない。その場合、殺す」
すっと吐いた声に、ぞわりと二人は背筋に悪寒が走るのを感じた。
氷点下に下がったような気配に、ウィンストンは口元を押さえる。
「わかったわ。……」
「ハフノン、いいのか?」
「キルストゥの赤――殺人の得意なほうが町に来ているのは教えてもらった。だが、入ってこれないのなら、問題はない」
「もし私が聖水を持っていても?」
「ああ。生きてる年季が違うのだよ、お嬢さん。わかっているみたいだけど――その足、苦労したろうに」
見抜かれて、セプテットは目を逸らす。
「車椅子が必要なのは、足のせいか?」
「ガーフィ。喧嘩は駄目だと言ったろう。言いたい」
「単に、遺伝子異常で足が異常発達してるのよ。短命かと思ったら、悪運が強くてもう何十年も生きてるだけよ」
素直に吐露したセプテットに、ガーフィは口を閉ざす。
「一般人と言えば、お嬢さんのほうが隣の彼よりよっぽど一般人に見えるよ」
ハフノンの視線に、ウィンストンは首を横に振った。
「いや、料理に優れているだけのただの一般人」
「それこそが、証だと思う」
「そうかぁ? そっちの軍人のほうが異常ってわかるじゃん」
「見た目はね。けれども世界に流れる運命は、目に見えるものじゃない。あり得ない者を会わせることもある」
ここの結界のようにね、とハフノンは長老を見る。
「全く……まあ、ゆっくりしていくといい」
「おれは行くぜ」
ガーフィが呟くと、背を向ける。
「仲良しごっこするつもりはねえからな」
「同感ね。名字だけで喧嘩振ってくる弱虫なんかはさっさと消えてほしいわ」
ぴきっと空間が凍りつく。
「喧嘩するな。大人だろ、二人とも」
諌めるハフノンに、二人は仲良く舌打ちした。
「案外、仲良いんだろうなぁ……」
ウィンストンが去っていくガーフィを見つめながら、ふう、と目を閉じた。
「キルストゥが嫌い、なんだな」
薄っすらと目を開くと、長老は頭を下げた。
「迷惑をかけたな、お二人には」
困ったように頭を下げる長老に、ハフノンは後ろ頭を掻いた。
「まあ、大事なくてよかった」
「あなたも、魔なのね」
「ああ」
端的に答えながらも、ハフノンは好意的な笑みを浮かべた。
「隠すことでもないからな。もう、復讐相手も数百年前に死んでる。今は、ああいう新人の世話をしている」
「謙遜するな。それに、森から出たということは、かのイレギュラーと会う必要があったんだろ」
長老の言葉に、ハフノンは頷いた。
「ここは数年に何回か、魔関係でトラブルを起こす馬鹿がいてな。外が恋しいのはいいんだが、人に手を上げるのが頭が痛くてな」
「さっきの男ね」
「お嬢さんも、挑発させないでくれ。できれば」
無理よという顔をするセプテットに、ハフノンは着物を整えながら息をついた。
「すみません、なんか、迷惑かけてしまって」
「ほっほっほ。この程度、迷惑でもなんでもないわ」
「日常茶飯事です」
二人はウィンストンの暗い声を吹き飛ばす。
「半殺しにしかけたこととかあって、それからガーフィのことは気にかけているんです」
「だから、あなたが気にする必要なんて、どこにもないんですよ」
「キルストゥを?」
「ガーフィももう死んだ身ですから。ここを出入りできる人が妬ましいんです」
「たまにただの人を殺しかけたしな」
笑い話だ、というが、ここは意外と無法地帯なのかもしれない、とセプテットはスイッチを入れる。
ウィンストンになにかあってはならない。護衛として。
目を細め、セプテットは心の中で気合を入れた。
「町の中を案内するよ。ここの食べ物のことは聞いたかい?」
「え、ええ。味は舌にあわなかったんですが」
ハフノンはおかしげにそうだろ、と笑う。
「外じゃ品種改良してるから美味いが、ここにあるものは基本的にそれらの祖先だ。食べにくいのもよーくわかるよ」
慣れてしまえば平気だけどね、と軽く告げる。
「うぅ、慣れる前に次に行かなくちゃならないんですよ」
「郷土料理を調べて回ってるの」
ほう、とハフノンと長老が感嘆の声を漏らした。
「見た目若くて、危険も多いのによく旅を決意したな」
「地方ほど危険も多い。でも、それも織り込み済みで旅をしているのだろう?」
ハフノンのウィンクに、ウィンストンは首を何度も縦に振った。
「ええ! 護衛も雇えましたし、学校からも許可は貰ってます!」
「そうか……じゃあ、手は抜けないぞ?」
「わかってますよ」
答えて、納得したハフノンは出入り口へと向かう。
「その足、無闇に使わないほうがいい」
「知ってる。散々、いろいろあったからね」
セプテットは忠告をあっさりと流して、横を通る着物男を見る。
魔。祓うべき怨念の死者。
ということは知っていたが、生者との違いを嗅ぎ分けることはできなかった。
「フォークなら、できたでしょうね」
そう告げて、けれどもここに入れない運命なのは、反対に幸運だったとセプテットは考えている。
魔と共存する、結界の町。
これ以上何事もないことを祈って、ウィンストンに車椅子のハンドルを握ってもらいながら。
「帰る時、顔出しますね!」
「ふっふっふ。待ってるよ」
長老の発言に、セプテットは嫌そうに顔を歪めた。