なにが原因だったのか、少年にはわからなかった。
ただ、学校が鐘とともに終わりをつげ、友達とも別れ、家に帰ってきた。
それだけ、だった。
家に帰るだけの、いつもとなにも変わらないはずの一日だった。
これからも、勉強や友達に悩んだり、でも結局楽しみながら暮らす普通の日。
そのはずだった。
「お兄ちゃん、お母さんとお父さんとなにやってるかな」
家族である三人の姿を思い浮かべて、少年はうきうきとした気分で家へと向かった。
学校帰りには商店街を通る。
大陸の中央にしては珍しく、まだビル街とは縁がなく、のほほんとした時代に取り残された商店街。
いつもであれば、物静かな場所だった。
だが、今日は何かが違う。
少年は、異質なにおいを感じ取った。
「? なんだろう」
商店街の中央へ近づくにつれて、そのにおいは嫌悪感を誘った。
人だかりができているのに気づいて、少年は首を傾げた。
そして、悲鳴にも似た声が響く。
「ひ、人殺しっ!」
「に、逃げろ!」
物騒な単語は緊迫した雰囲気をたたえていた。
だから、テレビの撮影とか、そういうものではないことが一発でわかってしまった。
「ふぉ、フォークくん!」
「八百屋のおじさんっ!」
見慣れた顔を見てほっとするのもつかの間、ひげの濃いおじさんは顔色を変えていた。
「どうしたの、ひ、人殺しとか」
「見るんじゃない!」
まばらになっていく中央。
そこはまぎれもなく、赤い池ができていた。
遠目だから、まだはっきりとはわからないが、人が折り重なって倒れていた。
「異国の軍人が、暴れたんだ!」
真っ青になったおじさんの言葉を聞き流し、フォークはその騒ぎの中央へ歩を進める。
「行くんじゃない!」
おじさんに強く手を握られても、フォークは足を進めていた。
見慣れた姿のような気がしたのだ。
だから、行かなければならない。
普通では考えられない力でおじさんの手を吹っ切ると、少年は遠慮なくそこへ向かい、
「――え?」
茶髪のスーツ姿の男性と、庇うようにして倒れた女性。
それはいつも家に帰れば待っている、両親の姿に酷似していた。
「フォークっ!」
いや、親しいおじさんの取り乱した姿が答えだった。
どんな理由かはわからないが。
両親が、軍人に、殺された。
コロサレタ。
ふと、兄の顔が頭に浮かんだ。
ここにはいないみたい。
おじさんの顔を見ると、心配そうだった。
誰を、心配しているのだろうか。
そうだ、お兄ちゃんは無事だろうか。
まだ仕事を探しているはずだから、家で待っているはずだ。
そこまで思考が回った時には、すでにフォークは制止の声も聞かずに走り出していた。
鉄臭いにおいが鼻腔をついた。
そして、眼下に広がる朱色の泉と、そこに埋もれるように倒れた、茶髪の見慣れた兄の姿があった。
「お兄ちゃん……?」
声はしっかりと出ていた。
でも、それに応える声は返ってこない。
「……お兄ちゃんっ!」
悲痛な声が上がる。
フォークは兄の元へ駆け寄ると、その背をさする。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
壊れた人形のように、フォーク・キルストゥは兄を呼ぶ。
温もりを失った兄の体に、それは無意味であると知っていても、どうしても認めたくはなかったのだ。
「ツキ、お兄ちゃんっ!」
声をいくら荒げても、こたえる言葉を失った青年からはなにも反応はなく。
ぺたん、と膝から力が抜けたフォークは、目を見開いてわなわなと口を震わせていた。
かすかに吐息が漏れるだけで。
両親と兄。
軍人が殺した。
その事実が、頭の中をぐるぐる回り、フォークの思考をいっぱいにする。
「……の」
目頭が熱くなり、心の底から、形容しがたい怒りが形をもってフォークの悲しみを食っていく。
それはまるで、餌を求めていた猛獣が、それを見つけて喜び勇み、飛びつくように。
頬を伝う涙とともに、フォークはふらりと立ち上がった。
冷静であれば。
通常であれば、治安維持の役割をもち、警察相応である軍へ連絡していただろう。
誰がどうみても殺人事件であることを、理解さえしていれば。
異国の軍人ということも、よくよく思い出せばわかっていたことだったのだ。
だが、少年は、悲しみと怒りに染められた少年に、そのことは欠落されていた。
フォークは空ろな瞳で、台所から包丁を抜き出した。
――誰が悪いか。
軍が強い社会だ。
軍が悪いに決まっている。
軍人は、一般人と異なるとはいっても、若者がメインであるこの国では学生服に似た制服だった。
だから、一般人と区別がつきづらい。
ならどうする?
思考は徐々に、エスカレートしていく。
誰も止めなかった。
それが一番、悪いことだ。
少年の思考は、冷静とはかけ離れた場所にあった。
だから気づかない。
けれども、少年は構わないというふうに。
「皆が悪い」
その空ろな瞳は、ただ断罪を望んでいた。
お母さんは怒ると怖いけど、とても優しい自慢のお母さんだった。
お父さんはちょっと情けないけど、服のセンスがよくて、デザイナーとしてはすごく活躍していた。
忙しかっただろうに、いつも家に帰ってきては、お母さんの料理を褒めていた。
お兄ちゃんも、可愛がってくれた。
変な置物を好んでいたり、賭け事が好きでちょっと自慢できないところもあったけれど、好きだった。
だから。
皆を取り上げた軍人が許せない。
家族を殺した、見殺しにした皆が許せない。
「僕が、なんとかしなきゃ」
包丁を一振りする。
これで人を殺せるだろうか。
でもやらなくちゃ。
首を狙えばいい。
必ず、殺せる。
いや、殺さないといけない。
でなければ、どうして両親と兄が浮かばれるだろうか。
殺さなきゃ。
殺してやる。
僕が、やらなくちゃならない。
暗示のように繰り返す思考の中、研ぎ澄まされていくのは、殺意の中の狂気。
二、三回ふるうと、普段はあまり握らない包丁でも手になじんでいた。
まるで、母親がそうしろというように。
「――殺してやる」
日常を望んだ少年は、両親と兄の突然な死によって、ともに埋葬され。
異常に膨らんだ殺意による狂気が、顔をのぞかせた。
家を出れば、おじさんが青い顔をして立っていた。
軍という単語が出た瞬間、その首を掻っ切った。
フォークの瞳は相変わらず空ろだった。
倒れた巨体の向こうに、幾人かの人の姿が見えた。
みな、幸せそうで。
みな、仲がよさそうで。
フォークには失われた「幸せ」を持っているようで。
ぎりり、と。
怒りが腹の底からこみ上げてきていた。
だから、フォークは遠慮することなく、駆け出した。
金髪の少女の首を切り裂いた。
男の子のほうは、少女が邪魔で切れなかった。
だから次に、その背後にいた青年の首を切った。
血しぶきが、吐き気をもよおすにおいに、顔をしかめる。
けれども、手は、足は、そして心を占める怒りは止まらない。
次の獲物を狙うハイエナのように、弱者ではなく強者さえ弱みを見れば切り裂く。
それは悲劇だった。
ただそこにいる、それだけでフォークに殺される人々も。
そして、無慈悲にも人を殺さざるを得なくなった、フォーク自身にとっても。
血しぶきは止まない。
フォークの通り道には、血の絨毯がひかれていった。
望まずとも、人を確実にかつ簡易に殺すには、無防備な首を狙うしかなかった。
「あ、あの少年です」
怯え切った声のほうを見れば、乾いた銃声が響く。
顔をかすめたそれに、普通であればフォークは恐れおののいただろう。
だが、皆が、家族を殺した。
その考えが生み出した怒涛の殺意が少年を衝動に駆らせる。
人を殺すこと。
それに何の感慨も持たなくなってしまった少年は、ただただ、自身がどうなろうとも構わずに。
人を殺すこと。
そのためだけに、幾多もの生命を無へと帰す。
弔いのように。
「動くな!」
無意味な制止の声を発した軍人の少年の懐へもぐりこむ。
軍人は刹那、対応が後手に回った。
普通の少年とは思えないフォークの動きは、彼を死へ送るには十分の時間を与えられていた。
「はっ!」
短い掛け声とともに、無防備なフォークの背中へ銃声が撃ち込まれる。
それを死んだ軍人で何発かかわしながらも、ずきずきと小さな傷がフォークに与えられていた。
死ぬ――?
そう考えたとき、心の中のなにかが壊れた。
フォークは死体となった軍人をおもいっきり突き飛ばすと、切れ味の落ちた包丁を捨て、走り出していた。
殺さなきゃ。
殺されちゃう。
嫌だ。
死にたくない。
ぱんぱんっと、乾いた音が響き渡る。
フォークは、手足に痛みを感じながらも、足を止めなかった。
もう、後戻りはできない。
なぜか、水をかけられたように怒りが引いていく。
「死にたく、ない」
響く銃声は、フォークめがけて繰り返される。
それは、死を呼ぶ水のごとく、フォークの体力をどんどん奪っていく。
このまま、死にたくない。
なにもなさないまま、死にたくない!
その時、木陰から、声がした。
「フォーク・キルストゥくん」
フードを被った異質な人。
それだけなら、無視していたに違いない。
手には、兄が大事にしていた、置物が、あったから。
ツキの笑顔が蘇る。
『こいつは、きっといいことがあるお守りなんだ。
小さいころに、祭りの屋台でもらった変な置物だけど、捨てたくはないんだよなぁ』
大事そうにして、幼いフォークには触らせてもらえなかったもの。
それが、呼んだ気がして。
学校の行事で一度だけ行ったことのある森、その奥に消えていく見知らぬだれかを追いかけて、フォークは駆け出していた。
血が失われて、視界が薄暗くなっていた。
フォークはふらついた足取りで、茂みの中を歩いていく。
雰囲気が、異質でどうにかしないといけないような空気が、少年を導いていく。
そして、坂道へ入る。
どうしてか、自分の足音以外の音が聞こえない。
それがいいかどうかはわからないけれども。
フォークは、丘の上、フード姿の誰かの元へ、走って行っていた。
「慌てなくても、逃げないよ」
男の人だった。
初めて見る。
フォークは、がくんと膝から崩れ落ちていた。
そうなるのが、自然のように。
横になって、倒れてしまっていた。
「大丈夫ではないね」
顔が近くなる。
銀に近い髪の色の青年は、優しくフォークの額をなでると、そのまましゃがみこんだ。
「この子がお世話になったね」
青年の背中越しに、空が見えた。
いつの間にか、星が輝く時間へ移ろっていた。
「……だれ、で、すか……?」
自分の声なのに、遠く感じる。
フォークは不思議だと思いながら、フード姿の男性に話しかけていた。
「フォア。こことは違う、世界の魂だよ」
よくわからないが、本当はここにいてはいけない人だということは、感じていた。
「どう、して」
「この子とはぐれてしまってね。探していたんだ」
ツキが大事にしていた置物の頭をなでながら、彼はいう。
「ぁ……」
フォークは、唐突に込みあがってくる涙と、悲しみと、恐怖を隠せなかった。
とめどなく落ちる涙には意味があったはずだった。
「ご、めんなさい」
「謝ることはないよ」
青年は、星空が似合う笑顔を浮かべていた。
それで余計に申し訳なくて。
なにが申し訳ないのかは、自分でもわからなかったが。
「君は、人を殺しすぎたけど、きっと、悲しかっただけなんだね。
それに、その力が、暴走してしまったんだ」
なにを言っているのか、フォークにはわからなかった。
けれども、一つだけわかることがある。
「助けてくれて、ありが、とう、……ご、ざい、ます」
「ああ、別に構わないよ。それより……君は、本当は、どうしたかった」
真剣なまなざしに、涙と嗚咽しか出なかった。
フォークは、情けないな、と自分にがっかりした。
「そうか。うん。大丈夫だよ。言わなくてもわかった。家族を失ったから、悲しかったんだね」
視界がだんだん、暗くなる。
フォークの変化に気づいて、青年は瞬き程度に目を閉じ。
「君を助けてあげよう。この子も、この結果は望んでないみたいだから」
「え……」
「といっても、今の君を助けることはもう無理なんだけれどね。
もっと時間をさかのぼって、同じことが起きても君の家族が死なないように、歴史を変えてあげる」
「そ、んな、こ、と」
「やるよ。世界を救ったこともあるし、そもそもここの住人じゃないからね」
「――ほん、と?」
「うん」
青年は、フォークの涙をぬぐってあげていた。
「できるだけのことはする。それがどういう結末になるかはわからないけれど」
「みん、な、たすか、る?」
「ああ。こんな凶行も、させない」
一層暗くなる視界に、フォークは自らの死を予感していた。
全身の痛みが、銃弾による傷が少年の命の火を削り取っていた。
「だから、お休みなさい。大丈夫、今度はきっと――」
君を助けるから。
そんな奇跡があるのかな、と思いながら、フォーク・キルストゥは命を終えた。